庭の作品 その10
これまで述べてきました守一の生き方は、守一の生きた時代1880(明治13)年から1977(昭和52)年とも関係があると思います。守一の次女で熊谷守一美術館主の榧氏がもの語り年譜の中で次のように語っています。「絵かきも従軍画家として戦争画を描かされたが、わけて派手に表立っていた藤田嗣治などは戦争画を描きまくり、戦後批判された。モリは彼をかばっていう。『おれは目立たなかったからそれですんだが、藤田は目立ったから戦争画を描かないわけにはいかなかった。』」また、1945年守一65歳の時、「モリは町角で演説する退役軍人を見てきて、『どうしようもない馬鹿だ。』といっていたが、縁側から道を通る本当の馬鹿を眺めて『こういう時代では馬鹿も一つの効用だ。』と皮肉っていた。まともな神経をもっていたら、とうてい冷静にしていられないという意味で。」守一は歯がぼろぼろで徴兵検査では丙種となり戦争に行きませんでしたが、日露戦争で同窓生の多くが亡くなっています。「川には川に合った生きものが棲む。上流には上流の、下流には下流の生ものがいる。自分の分際を忘れるより、自分の分際を守って生きた方が、世の中によいとわたしは思うのです。いくら時代が進んだといっても、結局、自分自身を失っては何にもなりません。自分にできないことを、世の中に合わせたってどうしようもない。川に落ちて流されるのと同じことで、何にもならない。」「わたしの長生きのコツはなるべく無理をしない、無理をしないとやってきたことです。気に入らぬことがあってもそれに逆らわず、退き退きして生きてきました。」前回までに述べてきました守一のエピソードもこの守一の生き方を読まれれば、ご理解頂けるのではないでしょうか。守一が多くの方々に好かれているのも、他者を傷つけることもなく、悲しいまでに自分に忠実であろうとする姿に心を打たれるからでしょう。
写真は昨年11月に撮影したものですから、岩の下にヒマラヤユキノシタのピンク色の花が咲いています。岩の上の作品は「壁」というタイトルで2000年に発表した作品の一つです。壁は空間を仕切るものですが、とらえようによって分断したり包容したりといろいろな役目をもち、また時には、窓や出入り口といった開口部も持ち、別の空間を垣間見させてくれたりもします。この作品を見ると思い出すのが、これの姉妹作品で、倉敷の老舗旅館御園に飾られていたものです。2014年に休館し、現在この旅館跡地にはマンションが建っています。この旅館は当時女将さんが色々なライブの企画をしていて、ジャズコンサートなども数多くあったのですが、印象に残っているものが二つあります。一つは畳敷きの大広間で開かれた上田正樹のコンサートで悲しい色やねなどを聴かせていただきました。1982年のアルバム発表時の歌い方とは異なり、かなりねっとりとした抑揚をつけていました。コンサート終了後はファンの方とお酒を酌み交わして、いつまで飲まれていたのかは存じませんが、そのままお泊りということです。もう一つは1998年に開かれた谷川俊太郎さんとピアノを演奏する息子賢作さん、ボーカルの高瀬麻里子さん、ベースの大坪寛彦さんのユニットDIVAとの共演でした。それまでは知識としての谷川俊太郎でしたが、ご自身の詩をピアノの伴奏で歌い上げる俊太郎さんに感動しました。それもロビーとテラスを会場とした2メートルたらずの目の前で聴けたのですから。本当に有難い体験をさせて頂いたものだと女将さんに感謝です。