教室レポート

庭の作品 その16

前回に続き、第三に宮沢賢治は熱烈な法華経の信者であり、行者であったことが話に影響しています。タイタニック号の3人と別れるときに本当の神様について論争になります。ジョバンニに青年が「あなたの神さまってどんな神さまですか。」と尋ね、「ぼくほんとうはよく知りません、けれどもそんなんでなしに、ほんとうのたった一人の神さまです。」と答えています。「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」「ああ、そんなんでなしに、たったひとりのほんとうの神さまです。」「だからそうじゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんとうの神さまの前に、わたくしたちとお会いになることを祈ります。」さらに、カンパネルラが座っていた席に現れた黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の痩せた大人が別の言い方で答えています。カンパネルラがいなくなって泣いていたジョバンニに「けれどもいっしょに行けない、そしてみんながカンパネルラだ。おまえがあうどんなひとでも、みんな何べんもおまえといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまえはさっき考えたように、あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし、みんなと一しょに早くそこに行くがいい、そこでばかりおまえはほんとうにカンパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。」ジョバンニは尋ねます。「ぼくはどうしてそれをもとめたらいいでしょう。」「ああわたくしもそれをもとめている。おまえはおまえの切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけぁいけない。・・・もしおまえがほんとうに勉強して実験でちゃんとほんとうの考とうその考とを分けてしまえば、その実験の方法さえきまれば、もう信仰も科学と同じようになる。」「お前はもう夢の鉄道の中でなしに本当の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない。天の川のなかでたった一つの、ほんとうのその切符を決しておまえはなくしてはいけない。」ほんとうのその切符とは何か、それが信仰の核心なのですが、すでに語られているのです。「切符を拝見いたします。」三人の席の横に、赤い帽子をかぶったせいの高い車掌が、いつかまっすぐに立っていて言いました。・・・ジョバンニは、すっかりあわててしまって、もしか上着のポケットにでも、入っていたかとおもいながら、手を入れて見ましたら、何か大きな畳んだ紙切れにあたりました。こんなもの入っていたろうかと思って、急いで出してみましたら、それは四つに折ったはがきぐらいの大きさの緑いろの紙でした。車掌が手を出しているもんですから何でも構わない、やっちまえと思って渡しましたら、車掌はまっすぐに立ち直って丁寧にそれを開いて見ていました。そして読みながら上着のぼたんやなんかしきりに直したりしていましたし燈台看守も下からそれを熱心にのぞいていましたから、ジョバンニはたしかにあれは証明書か何かだったと考えて少し胸が熱くなるような気がしました。「これは三次空間の方からお持ちになったのですか。」車掌がたずねました。「何だかわかりません。」もう大丈夫だと安心しながらジョバンニはそっちを見あげてくつくつ笑いました。「よろしゅうございます。南十字へ着きますのは、次の第三時ころになります。」車掌は紙をジョバンニに渡して向うへ行きました。カンパネルラは、その紙切れが何だったのか待ち兼ねたというように急いでのぞきこみました。ジョバンニも全く早く見たかったのです。ところがそれはいちめん黒い唐草のような模様の中に、おかしな十ばかりの文字を印刷したもので、だまって見ていると何だかその中へ吸い込まれてしまうような気がするのでした。すると鳥捕りが横からちらっとそれを見てあわてたように云いました。「おや、こいつは大したもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符だ。天上どこじゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行ける筈でさあ、あなた方大したもんですね。」当時階級意識がまだ強く存在する社会で、学識や貴賤に関係なく、鳥捕りがおかしな十ばかりの字の意味を知っているというのです。賢治が所持していた「漢和対照妙法蓮華経」は島地大等(1875~1927 浄土真宗本願寺派の僧侶でありながらいろいろな宗派の教義に通じ、賢治の最も近くにいたすぐれた仏教学者)が編纂したもので、赤い表紙にサンスクリットで「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」と横書きで書かれていました。「サッ(ト)」は正しい、妙なる、真実のという意味で、「ダルマ」は法、真理のことです。「プンダリーカ」は白い蓮の華、「スートラ」はお経のことです。妙法蓮華経とは、「泥の中から咲く真っ白な蓮の華のように、妙なる真実の教え」という意味です。ジョバンニは「さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カンパネルラのために、みんなのために、ほんとうのほんとうの幸福をさがすぞ。」と言っていますが、賢治の法華経の行者としての覚悟なのでしょう。このように銀河鉄道の夜は「サイエンティスト」としての賢治が、空想の天の川を作り上げ、その左の岸に沿って南へ南へと走り続ける汽車の乗客である死者と会話し、法華経の信者として生きる覚悟を表明したお話として受け取れると思います。童話といっても起承転結で話が進んでいるわけではなく、全体の流れとは関係のないいろいろな話が差しはさまれ、この物語を難解にしていることがこの歳になって初めてわかりました。

今回の作品は、黄色いツワブキの花が咲いている手前の青い器です。この作品は1990年に地元のデパートTの4階にふるさと工房というコーナーが新設され、その展示のために制作したものです。この頃関心を持っていたのが、建築に「起こし絵図」(台紙に平面図を描き、それに窓や戸など壁面を描いた展開図が付き、さらには天井図も貼り付けて建物の立体的な構造を再現する)というのがあるのですが、平面的なものを起こして立体にする考え方です。延ばした土の表面に装飾をして、その後切れ目を入れたり一部を切り取ったりして起こしていきます。二枚目の写真の作品もそのようにして作ったものです。立体にしてはつけれない装飾が平面の時につけることができるメリットがあります。この後この技法は使っていなかったのですが、三枚目の写真にあるように、2003年に再び制作した花器はこの方法によるものです。この時は表面の装飾のためというより、立ち上がる時に生じる曲線のフォルムを得るためでした。