庭の作品 その7
守一の絵の捉え方についてもう少し触れておきましょう。「景色がありましょう。景色の中に生きもの、例えば牛でも何でも描いてあるとするのです。それが絵では何時でもそこに居るでせう。実際のものは、自然はそこにゐないでせう。その事の描けてゐる絵と描けてゐない絵とがあると思ひます。あなたは此処にゐるが、何時迄も此処にゐない。それを描けるか。」これは1955年6月の「心」に発表された「私の生ひ立と絵の話」の中に書かれたものです。これを読んだ時、地元ゆかりの雪舟や浦上玉堂の話をよくしていた日本画家の故藤澤人牛先生が「絵に描いてあるもの、例えば牛でもよいのですが、それを取り去った後にそこに空間が存在するかどうかが大事だ。」と言われていた事を思い出しました。「心」というのは1948年7月に創刊された同人雑誌で、第2次大戦後の急激な左翼的風潮にあきたりない安倍能成、武者小路実篤、天野貞祐、田中耕太郎、小泉信三、梅原龍三郎ら、いわゆるオールド・リベラリストが結成した<生成会>の手によるものです。守一も8月に武者小路実篤や志賀直哉の推薦で同人となり、同誌に度々カットを描き、油絵、水墨画、書なども紹介されていました。先の文章は6月に発表されたものですが、11月には志賀直哉、大原總一郎、中川一政との座談会「虫と鳥の話」が掲載されています。また別のお話があります。日本野鳥の会の創立者である中西悟堂も、守一の絵に対する姿勢について次のように回想しています。中西の知り合いの若い画家が、1940(昭和15)年代半ば頃から守一に絵を学ぶなかで自作を見せたところ、守一は「像と、バックの壁との距離が出てはおらん。空間が描けておらんな。」と言ったそうです。その言葉に若い画家が「どうしたら距離なんか出るんだい。」と尋ねたところ、守一は「俺にきく奴があるかい。“空間”にきいて工夫しろ。一尺離れていたら一尺の、二尺離れていたら二尺の距離が出せぬうちは油絵などに手を出すな。」と答えたということです。常に対象を鋭く観察し、自分らしさを表現しようと試み続けた守一の姿が現れています。さて、写真はカイズカイブキの木の間に土管のような形が立っていますが、「影」シリーズの一作です。1995年2月に京都のマロニエというギャラリーで発表したものです。この年の1月17日に阪神淡路大震災が起こり、まだこの時山陽新幹線も山陽本線も復旧していなくて、岡山から来られたお客様には大変お手数をかけました。会場では4作品のインスタレーションで、この作品は部屋の入口正面に二段重ねで立ち上がり、その前の床にこの一体化した像の映り込む水面が用意されていました。今思えばなぜこのような形にしたのか思い出せませんが、人が両手で迎えてくれているようにも見えます。