教室レポート

庭の作品 その6

熊谷守一の著書に「蒼蠅」というのがあります。あおばえと読むのですが、この名前を見た時シュールの小説とかならばありそうですが、何でこんなタイトルをつけたのかと思いました。光った蠅のことで、守一はこの字が好きでよく書いているのです。展覧会で書が売れないで残ると、「わたしは蒼蠅は格好がいいって思うんだけれど、普通の人はそうは思わんのでしょうね。病気の時なんて、床の周りをぶんぶん飛んでくると景気よくて退屈しない。この頃は蒼蠅もいなくて淋しいくらいです。」と言って、浄,不浄の差別をしていません。また、こんなことがありました。1910年30歳の時第十三回白馬会に「轢死」と題する絵を出品していますが、先に文展に出品しようとして、題材のために搬入を拒否されていました。夜の踏切で本当に飛び込み自殺の女の人を目撃して、スケッチしたものから油絵を描いていて、月夜の下に自分で作った彫刻の裸婦を置いてまで描き、苦心して仕上げたらしいのです。さらに、地元倉敷の大原美術館に所蔵されている「陽の死んだ日」という油絵があります。私も何度か美術館を訪れていますので拝見しているはずですが記憶にありませんので、恐らく目を背けてまともに見てはいないのでしょう。「苦しい暮らしの中で三人の子を亡くしました。次男の陽が(数え年)四歳で死んだときは、陽がこの世に残すものが何もないことを思って、陽の死に顔を描きはじめましたが、描いているうちに“絵”を描いている自分に気がつき、いやになって止めました。『陽の死んだ日』です。早描きで、三十分ぐらいで描きました。」1928年守一48歳の時のことです。後に当時を振り返って胸の締め付けられる思いをこのように綴っています。描きたい衝動に駆られると対象を選ばない守一の絵に対する姿勢がよくわかります。さて、写真は壊れた壷が土の塊にくっついた作品です。「現出するうつわ」シリーズの一作で、この作品は対で作られています。うつわが大地から立ち現れる様子をイメージしたものです。この壷の形は美観地区の河畔にある倉敷考古館が所蔵する土師器を模倣しています。山陽地方の弥生時代終末から古墳時代初頭の時期を代表する「酒津式]土器といわれるものの中でも特に有名なものですが、実際の壷の頸部にある「直弧文」と呼ばれる文様は描いていません。7月27日に国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産委員会が青森市の三内丸山遺跡など17ヵ所で構成する「北海道・北東北の縄文遺跡群」(北海道、青森、岩手、秋田)の文化遺産登録を決定したそうですが、人間の生活がそこにあり、連綿と続いた陶器づくりの伝統に思いを新たにします。